熊本城は美しい要塞でした
3年連続いってよかった城1位
熊本城
私ー「神社仏閣」は好きですけど「お城」は興味なかったんです。
旦那さんが「小倉城」見てからお城にはまりましていってきました熊本城!
遠くから見たことはあったんですけど中ははじめてです。
もうすっごい敷地の広さとスケールの大きさにびっくりです
そして私の侍魂がさわぐさわぐ!やーお城いいです!
それに建てたのが「加藤清正公」
豊臣家に忠義をつくす「漢」です !
「闇り通路」
いまでいう地下通路で、ここが御殿への入り口となります。
全国でもめずらしいそうです。
「 大御台所」天井の梁がりっぱです
「蛇の目紋」「桔梗紋」加藤家の家紋です
「九曜紋」は細川家の家紋
「武者返し」の石垣
鎧つけてここはあがれないだろうな「西南戦争」のときにもこの石垣に阻まれたらしいです
お堀の苔すら美しいです
「昭君之間」
本丸御殿の中で一番格式ある場所です
中国前漢の時代現モンゴルに嫁がれた王昭君の物語が障壁画として描かれている。
実は「将軍の間」との説があるそうです。
秀吉の子秀頼が万が一のときには、ここにむかえ入れるつもりでいたのでは・・・?
徳川に背く覚悟までして、豊臣家に忠義を尽くします。
秀吉とは親戚関係であったらしく12歳から秀吉に仕え可愛がられていたらしいですが、生涯尽くすなんてかっこいい生き方でしょう!
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめた。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。
加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていた。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。
1601年熊本城築城着手
1607年に熊本城完成
1611年清正病死(50歳)たった4年で亡くなったのね
1877年の西南戦争 熊本城を落とせなかった西郷隆盛さん
官軍ではなく加藤清正公に負けた・・・と言ったらしい逸話が残っている。
城内には120も井戸があり戦いに備えられていた様子がわかります。
さすが難攻不落の巨大要塞です!
ただこの時原因不明の出火により天守閣など一部焼失
いろいろな説があり覚悟を決め戦うための自焼説もある・・・
ここまで復元されるのは大変だったことでしょう。寄付を多くの方がされているようで
熊本県民の方々にとても愛されていた「加藤清正公」でした!
熊本といえば「馬刺し」のチップス!お土産です
いつか天空の城「竹田城」行ってみたい、雲海が美しいらしいのですが、私みたいな何の知識もなく軽い気持ちで行ってはいけない気がします・・・
歴史の授業もっとちゃんとしておけばよかった~(泣)試験の為の丸暗記は肝心なこと忘れてる・・・
ここは「時代劇」みて勉強しよう!
時代劇あるかな?