幻のお城「肥前名護屋城」跡です
またお城行ってきました
今回は伝説の城「名護屋城」跡
えーと第・・・4弾です(今回はお城跡です)
佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあります
九州のこんなところに・・・あっすいません(いかがおいしくていいところです)
「豊臣秀吉」のお城があったなんてびっくりします。
秀吉が文禄慶長の役の際に、国内拠点として築いた城です。
当時「大阪城」に次ぐほどの大きさなのになんとわずか「5ヶ月」で築城されたといわれています。そして設計は「黒田官兵衛」さんです!
名護屋城
天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉は九州平定(九州征伐)をすると、天正17年(1589年)、奥州伊達政宗、翌年北条氏直を降し(小田原征伐)、徳川家康を関東に移封し天下統一をなした。国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球やルソンや高山国(台湾)にも使者を出した。
宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元名古屋と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。
10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった[6]。『松浦古事記』によれば、20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされた[6]。
築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。
勝手にパワースポット認定します!
なんかありそうな感じですよ~パワーが・・・
全国から集まった大名の陣屋が130以上も建てられ約20万人の城下町となった。
これほどの名だたる武将が集結したなんてもうすごいです(関ヶ原や小田原より多かったそうです)
加藤清正、伊達政宗、徳川家康すごい名前ばかりです!このあたりいったいはすごいオーラがでていたでしょうね!
しかし1615年の「一国一城令」を受けて人為的に破却
そして、「幻のお城」となってしまいました。
とてもきれいに整備されています
左の石段のとこでひなたぼっこしてました~今日はあったかくていいね
上から目線で見られてます・・・
ゴルフ場じゃありませんよ~っていうくらい広い敷地です
呼子大橋がみえます!すばらしい眺め
こちらが唐津城です
関ヶ原の戦いの跡、寺沢広高が唐津城築城の際に名護屋城の一部の遺財を使用したといわれています。
最後に
今回、前日ニート君に何気に駄目もとで誘ってみました。
すると、珍しく朝から起きてまして行く気満々だぜ!っていう雰囲気をかもしだしてたんでびっくりしました。どうしたんだろ・・・
名護屋城跡でテンション高くて「おおーすげー」って写真も撮ったりして
何に反応したんだろう・・・どこでスイッチ入ったのかな?
春だからかなぁ~
久々の外出で帰りは車の中でやっぱり寝てましたけどねw
また誘ってみることにしよう・・・